ディズニーといえば、「夢」というイメージで実在した歴史上の人物が主人公になるのは珍しいことです。1995年に放映された『ポカホンタス』では、アメリカとヨーロッパの架け橋とされた、インディアン女性がヒロインになっています。新大陸アメリカ史のヨーロッパ入植の歴史を語るなら彼女のことは知っておくべき。それでは、「ポカホンタス」をご紹介しましょう。
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もくじ
ヨーロッパの侵略は北アメリカにも
スペインが中米と南米を征服していた、17世紀初頭の北アメリカでのお話です。まだこの頃はヨーロッパの影響を受けてなく、先住民たちの神話的な生活が行われていました。彼らには文字文化がなく、ポカホンタスのことも詳しくは分かっておらず、後世になって美化されたのが実情でしょう。
カナダ沿岸にはフランス人が、ニューアムステルダムにはオランダ人が定着しており、ヴァージニア州からノースカロライナ州にかけ南沿岸にイギリスは着目します。『パイレーツオブカリビアン』のような、カリブ海の海賊の活躍もあったから、海軍国家イギリスはこの地に侵略できたのです。
イギリスの侵略理由は?
1607年に、元兵士で航海士だったイギリス人のジョン・スミス一行が、定住の地を求めて新大陸アメリカにやってきました。この地に彼らが来た理由は、新大陸にスペインに勝るイギリス勢力圏を置き、新大陸で取れる金銀を奪い先住民を教育しキリスト教徒に改宗させるのが目的だったのです。「ヴァージニア」という名前は、一生独身だったヴァージンのエリザベス一世にあやかって付けられています。後にこの地を植民地化するための費用を捻出するための団体、ヴァージニア会社も設立されました。
ジェームズ・タウンに上陸したジョン・スミスを始め植民者たちは、この地のリーダーたちから歓迎され宴を開いてもらいます。でも、最中に喧嘩が勃発。感情にすれ違いができ、紛争が絶えなくなりました。次にイギリスからきた船で、ほとんどの植民者が帰ってしまい、残ったものは、飢えや病に苦しみ多くの人が亡くなりました。植民者の中心人物の一人だったジョン・スミスの提案で、イギリスから持ってきたナイフやガラス製品をトウモロコシと交換し食料としていました。
ジョン・スミスを助けたポカホンタス
いろいろな部族と交易しながら川をさかのぼり、上流奥地のポウハタン集落にたどり着いたのです。しかし、スパイ容疑をかけられ処刑されることになってしまいます。殺される寸前に、ポカホンタスが父に命乞いをしてくれたおかげで、助かったという伝説が残されています。当時10歳くらいだったポカホンタスに命が救われた話は、ジョン・スミスの作り話との説もあります。
ポカホンタスはポウハタン族のリーダーの娘です。父のポウハタンは実力者で、アメリカ始まりの聖地とされる最初の永続的植民地「ジェームズ・タウン(当時のイギリスの新しい国王の名前)」一帯のアルゴンキン語を母語とする部族のリーダーでした。
白人の集落で人気者になるポカホンタス
白人とポウハタン族は、両者の誤解などで軋轢が生まれ、険悪な関係になりつつありました。リーダーのポウハタンは、平和的な解決をしたいとポカホンタスを白人集落へ送りました。インディアンには、悪意も策略もないことを示すために、自分の娘を相手側に送る風習があったからです。
頭の回転の速かったポカホンタスは白人集落で、明るい笑顔で駆け回り、ここでも人気者となりました。白人と接するうちに、英語も習得していたようです。凶作の年に、自分で食料を確保できない白人と、プライドが高く白人の抑圧に屈しないポウハタン族の間に亀裂が入り、食糧補給ができなかったイギリス人のほとんどが飢え死にします。
ジョン・ロルフとの出会い
生き残った植民者は、次の船で帰ってしまいました。新しく150人の植民者が来ました。先人の失敗から、彼らはトウモロコシの栽培をするなど、植民地の再建を試みます。その中に、将来ポカホンタスと結婚するジョン・ロルフがいました。
ロルフは、トウモロコシではなくタバコの栽培を始め大成功しています。ロルフの作るタバコは、品質が良いとロンドンで人気になったのです。そうして、タバコを栽培する土地を拡大させ、「茶色の黄金」と呼ばれるほどの、経済効果をあげます。黒人奴隷を使うようになり、川沿いには多くの倉庫を作るほどでした。そんな時に、ポウハタンを牽制するため、白人集落で人質とされていたポカホンタスと出会ったのです。
祝福された二人の結婚
バツイチのロルフとポカホンタスは結婚することとなりました。この結婚は、先住民のポウハタン族も入植者たちにも望ましいことでした。ポカホンタスが白人集落に人質にされた時、牧師のアレキサンダー・ウィティカが自宅に住まわせており、イギリス流のマナーやキリストの教えも習っていたのです。1614年4月5日に結婚を機に、キリストの洗礼を受け名前をレベッカと改めました。先住民と植民者の和解への証にされたのです。
誇り高いインディアンのリーダーの娘が、改宗し名前も変えたとイギリスでも話題になりました。インディアンのリーダー=王様の娘という、感覚でとらえられていたからです。ロンドンでもポカホンタスたちの結婚は歓迎され、束の間の幸せな日々を送りました。
ポカホンタスの悲しい死
結婚の2年後にはトマスという、男の子も授かりました。1616年にロンドンからロルフに、ヴァージニア会社を救うために帰国してほしいとの手紙が届きました。ロンドンに一家が着いた時、ジェームズ一世はバッキンガム宮殿でのパーティーに招待しました。「偉大なインディアンのプリンセスが宮廷にやってきた。」と、注目を浴びたようです。この時、サイモン・ファン・デ・パスという、銅板画師によって彼女の肖像画が作られています。
アメリカとヨーロッパの橋渡しをしたポカホンタスですが、空気の綺麗なヴァージニアでしか暮らしたことのないポカホンタスは、次第にロンドンの人混みやスラム、汚れた空気に体調を壊してしまいました。気が弱くなっていたポカホンタスの前に、死んだと思っていたジョン・スミスが現れたのです。人前で感情を晒さないインディアンだった彼女は、再会に感動するも平静を装っていたとか。でも、懐かしくもあり本当に嬉しかったようです。
ヴァージニアに帰れることになったポカホンタスは大喜びしました。1617年3月にアメリカへ向かう船の上で、病気にかかりポカホンタスは死んでしまいました。病名は分かっていませんが、アメリカにはないヨーロッパならではの病気だったようです。その病に対する免疫がなかったことが、23歳(想定)という若さで命を落とす結果となったのでした。ポカホンタスの人生は儚かったものの、ロマンティックな伝説の中で現在も生きています。
まとめ
インディアンとヨーロッパ文化の融和の象徴とされたポカホンタス。インディアンには、自分の本名は本当に信頼している人にしか明かさないという風習があります。野心も欲求もあったと思いますが、自分のしたいことを我慢し、怒ることもなかったとか。そんなポカホンタスの、世の中に対する意地だったのでしょうか?本名は誰にも明かしていません。ポカホンタスの本名は、「マトアカ(灯のある者)」です。
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