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南ドイツ巡りに知っておきたいバイエルンの若き王ルートヴィヒ2世

超イケメンだけど「狂王」と不名誉なあだ名をつけられた、バイエルン王国の王様だった人物。政治では実力を発揮することはできませんでしたが、ディズニーにも登場するメルヘンチックなお城を作ったことで、「メルヘン王」とも称されています。それでは、「バイエルンの若き王ルートヴィヒ2世」をご紹介します。

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多感な好青年ルートヴィヒ2世の誕生


ルートヴィヒ2世は、1845年8月25日にバイエルン王のマクシミリアン2世とプロセインの王女マリーの間に生まれました。生まれた場所は、ミュンヘン郊外の夏の離宮ニュンフェンブルク城です。本名は「ルートヴィヒ・オットー・フリードリヒ・ヴィルヘルム」といい、バイエルンを治めるヴィッテルスバッハ家の嫡子として誕生しました。ヴィッテルスバッハ家はドイツ屈指の名門で、今でもミュンヘンで王といえば「ルートヴィヒ2世」のことを指しています。

ワーグナーのパトロンだった「ヨーロッパで一番美しい王」


父は厳格な人物で、幼いころから帝王学を主に英才教育を受けています。美少年だった彼は、芸術への目覚めも早いロマンチストだったようです。父が53歳で他界し、19歳で王位に就いて最初にした仕事はワーグナーのパトロンでした。16歳の時に見た歌劇『ローエングリン』の作曲の素晴らしさに感動したからです。


王になりたてのルートヴィヒ2世は、「ヨーロッパで一番美しい王」と呼ばれていました。政治には積極的で、王国のイメージも大切にしています。ワーグナーへの費用は、国費からではなく王個人の報酬の一割が使われました。ワーグナーが次第に政治にも口を出し始めたことで、臣下たちの批判を受け彼を切り捨てています。でも、1865年6月にはミュンヘンの宮廷劇場で、永遠に上演できないといわれていたワーグナーの戯曲『トリスタンとイゾルデ』の上演を成功させたことは素晴らしい功績でしょう。他にも芸術を成功させており、プロデュース能力が高いと世界中から賞賛されています。

婚約破棄から狂い始める人生


22歳の時に、彼が唯一心を許した女性オーストリアとハンガリー皇妃「エリザベート」の妹「ゾフィー」と婚約するも破棄しています。権力争いや陰謀などに嫌気がさし、夢想の現実のみを追うようになります。24歳の時にディズニーの『眠れる森の美女』のモデル「ノイシュヴァンシュタイン城」の築城を皮切りに、唯一完成させたロココ様式の華麗な「リンダーホーフ城」やヴェルサイユ宮殿に似た外観の「ヘレンキームゼー城」など、王の仕事から逃れるように城造りに没頭しました。


城造りにうつつをぬかし、政治における努力も認められなかった、彼の晩年は「狂王」と呼ばれるようになりました。確かに彼のロマンティックな性格から作る城はお金がかかり、国は破綻寸前になっていました。その上に、40歳の時には何年も前に一度会っただけの精神科医グッデンに、「パラノイア」の診断をくだされています。

謎の死を遂げるルートヴィヒ2世


城建設で国費を圧迫させたことで王位を剥奪され、ベルク城に幽閉されます。でも、表向きは精神病ということでの幽閉でした。同行していた侍医と共に、夕方にシュタルンベルク湖へ散歩に出かけそのまま帰らぬ人となってしまいます。泳ぎの上手かったルートヴィヒ2世が、翌朝湖で遺体となって発見されたのです。疑問の残る亡くなり方で、現在も他殺されたのではなど死因については疑問視されています。シュタルンベルク湖の彼が発見された場所には、シンプルな十字架が立っています。検死もほとんど行われないまま、ミュンヘンにある聖ミヒャエル教会に埋葬されました。


第4代バイエルン王の終焉は、あっけないものでした。でも彼は、バイエルン屈指の観光地となっている、「ノイシュヴァンシュタイン城」を建設しました。実は、ルートヴィヒ2世は、自分が死んだらノイシュヴァンシュタイン城を壊してほしいと生前に頼んでいたようです。贅を尽くして建てた豪華絢爛な白亜の古城は、現在もアルプスの森を背にロマンティックな美しさで立ち訪れる人々を魅了しています。

まとめ

波乱万丈な人生を送ったルードヴィヒ2世の死を悼んだ皇妃エリザベートは、「あの人は夢を見ていただけでしょう。」と語ったとか。ドイツ・ロマンティック街道への旅行へ行くなら、ぜひ、ルートヴィヒ2世が建てた3つのお城に訪れて、彼がどういう人物だったかを考えながら巡ってみてはいかがでしょう。

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